ゆれるスカート

深淵にて

『ぬるい毒』を読んだ

本谷有希子著、『ぬるい毒』を読んだ。

物語は、高校の同級生と名乗る男性からの電話からはじまる。そのドラマチックな冒頭とは裏腹に、この小説の内容は暗く波がないです。私には読みやすくおもしろかったです。

この物語で圧倒的存在感を放つ登場人物、向伊(むかい)は今までに読んだ小説のどの登場人物よりも難解な奴でした。

主人公の女性熊田に電話を掛けてきた張本人です。向伊は狡猾な嘘で人を騙し、侮蔑することに快楽を求めるような人でなしです。しかし。大変困ったことにカリスマ的な魅力を放つ人物なのである。

いくつかの向伊を表現する文章を引用したい。
想像よりもずっと、魅力の塊のような男だった。それも万人に伝わるような、分かりやすい魅力ではなかった。ピアノの白い鍵盤ではなく、黒鍵を踏んでいるような足取りだった。腐りかけた人間を思わせる少し丸まった姿勢だった。長いくせ毛の黒髪が溶けるように周囲に馴染んで、身のこなしはだらしないのに目つきだけは心に突き刺さるように鋭い気がする。〈カリスマ〉という空気の層が、向伊の周りをヒトガタに囲んで一緒に動いているのかとおもった。
髪の隙間から手元が見えた。向伊の指には煙草が挟まっていて、こんなに短くなるまで吸うことに意外な感じを覚えたが、不思議と貧乏臭くはなかった。このだらしなさは向伊の魅力に繋がっている。このどうしようもなさそうな友人たちでさえ、彼の危うさをほどよく印象づけていた。
三度目で初めてTシャツから出ている腕を見た。不健康さは変わらなかった。というより、それこそ彼の力だった。この世の何もかもを拒絶しているような体は、向伊に生命力とは別の力を与えている。
初めて見たときにも感じた。向伊には魅力がある。それは、人に興味を持たれ続けた人間にしか出せない何かだ。人に憧れられ続けた人間の何か。どうしようもなく億劫そうで、それなのに存在感は一人だけ凹凸があって、この人の近くにいれば、自分の価値まで上がるような、そんな錯覚を起こさせる人間。キレイゴトをすべて嘲笑うこの人の悪さを認められれば、自分のセンスが証明できるような。そういう人はたまにいる。生きてるだけで周りのリトマス試験紙になってしまう存在。
この文章で私はご多分に漏れず向伊に恋をする。主人公熊田は向伊に対する恋愛感情を否定しているが、入り組んでいるがやはり恋愛ではないかと思う。

私は小説前半、向伊に恋をしていたが、後半、それは消え去った。いくら魅力に溢れていようと、性格が難ありまくりなのだ。自分しか愛してない。人を人間扱いしない。

でも。でも、そんな奴から離れられない
。それこそ恋なのかもしれなかった。狂気なのかもしれなかった。

熊田が向伊から離れられなかったのは恋愛要素もあるけど、自分と似た部分を感じたのだと思う。この人は、私と同類だ。シンパシー。

この小説は全体としては平坦な内容なのだけど、最後は思いがけず明るくおわる。ような気がした。辛い思い出を、ちょっと経って笑いながら話せるような。一生の思い出をそっと思い返すような。

ぬるい毒 (新潮文庫)

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